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北方領土(北方四島)の位置や歴史

(1)北方領土の位置

 北方領土とは、北海道の北東に位置する択捉島(えとろふとう)、国後島(くなしりとう)、色丹島(しこたんとう)及び歯舞群島(はぼまいぐんとう)の四島を言い、北方四島とも言われています。このうち歯舞群島は、貝殻(かいがら)、水晶(すいしょう)、秋勇留(あきゆり)、勇留(ゆり)、志発(しぼつ)、多楽(たらく)などの島々からなる群島です。
 北海道最東端の市である根室市の納沙布岬から、最も近い貝殻島(歯舞群島)までは3.7㎞しか離れておらず、最も遠い択捉島でも144.5㎞で、伊豆半島から八丈島までよりも近い距離にあります。

(2)北方領土の歴史

平和的に結ばれた日魯通好条約

 わが国はロシアより早く、北方四島、樺太及び千島列島の存在を知り、すでに1644年には「クナシリ(国後)」島、「エトホロ(択捉)」島等の地名を明記した地図(正保御国絵図)が編纂され、幾多の日本人がこの地域に渡航していました。松前藩は、17世紀初頭より北方四島を自藩領と認識し、徐々に統治を確立していきました。
 これに対して、ロシアの勢力は、18世紀初めにカムチャッカ半島を支配した後にようやく千島列島の北部に現れてわが国と接触するようになりました。
 1855年2月7日、わが国は、ロシアとの間に通好条約を結んで国家間の交流を開始しましたが、この条約は、当時自然に成立していた択捉島とウルップ島の間の国境をそのまま確認するものでした。当時のロシア皇帝ニコライ一世自身も、条約締結以前から両国の国境を「択捉島とウルップ島の間」と考えていましたし、ロシア側の全権代表プチャーチン提督も条約に調印するに際し、「将来の紛争を避けるため細心の調査を行った結果、択捉島は日本国の領土であることが証明された」と述べています。日露両国は、このように全く平和的・友好的な形で合意を達成したのです。

樺太千島交換条約で譲り受けた「千島列島」

 1875年には、わが国は千島列島をロシアから譲り受けるかわりに、ロシアに対して樺太全島を放棄することを決定し、ロシアと樺太千島交換条約を結びました。
 この条約の第2条には、日本がロシアから譲り受ける島としてシュムシュ島からウルップ島までの18の島々の名を列挙しています。
 こうした事実は、択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島の北方四島が、一度も他国の領土になったことがないことをはっきり示すもので、当時すでにこれらの島々が、ロシアから譲り受けた千島列島(The Kurile Islands)とは明確に区別されていたことを物語っています。

ソ連軍の侵攻

 第二次世界大戦で日本の敗戦が濃厚となった1945(昭和20)年8月9日、ソ連は当時まだ有効であった日ソ中立条約を無視して対日参戦しました。そして8月14日に日本がポツダム宣言を受諾し降伏の意図を明確に表明した後の8月18日、ソ連軍が千島列島の占領を開始し、8月28日から9月5日までの間に択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島のすべてを占領してしまいました。

サンフランシスコ平和条約

 1951年に結ばれたサンフランシスコ平和条約は、千島列島と南樺太について「日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」と規定しています。
 この規定によって、日本は千島列島と南樺太を放棄しましたが、平和条約はこれらの地域が最終的にどこに帰属するかについては何も定めていません。ソ連は、これらの地域を一方的に自国の領土に入れ、今日まで事実上これらの地域に施政を及ぼしてきましたが国際法上これらの地域がどこに帰属するかは今なお未定であるわけです。
 また、平和条約は「千島列島」(The Kurile Islands)の地理的な範囲をはっきりと定めていませんが、日本政府は、国後、択捉両島は日本固有の領土であって、この条約で放棄した「千島列島」には含まれていないという見解を繰り返し明らかにしてきています。
 平和条約の起草国である米国政府は、1956年の国務省覚書で、「択捉、国後両島は(北海道の一部たる歯舞群島及び色丹島とともに)常に固有の日本領土の一部をなしてきたものであり、かつ、正当に日本の主権下にあるものとして認められなければならないものである」という公式見解を明らかにして、わが国の立場を支持しています。

(3)北方領土問題に関するわが国の考え

 1991年4月、ソ連のゴルバチョフ大統領が訪日して日ソ首脳会談が行われ、その共同声明において、北方四島が平和条約において解決されるべき領土問題の対象であることが初めて文書の形で明確に確認されるとともに、平和条約締結作業の加速化の重要性が強調されました。
 その後、ソ連は崩壊しましたが、それ以降、ソ連との間で行われてきた領土返還交渉は、ロシア連邦との間で継続されています。
 ロシア政府は、ソ連よりロシアが引き継いだ領土問題につき新たなアプローチを提示しました。この新たなアプローチにおいては、第一に、今日の世界における肯定的変革により、もはや第二次世界大戦における敗戦国、戦勝国との区別など存在しない新たな国際秩序が現出しつつあるとの認識が強調され、第二に、過去に締結された国際合意を尊重することを含め、領土問題の解決に当たっては「法と正義」が重要な原則となることが強調されています。
 わが国は、このようなアプローチを歓迎しています。
 政府は、北方領土問題の解決に当たってこのようなロシア政府の姿勢にかんがみ、柔軟でかつ理性的な対応をとっていく考えを示しています。
 第一に、北方領土に現在居住しているロシア国民については、彼らの人権、利益及び希望は北方領土返還後も十分に尊重していくこと。かって北方領土の日本人の島民はスターリンにより強制退去させられました。その悲劇を経験した日本人は、現在北方領土に居住している人々が同じ悲劇を味わうことのない解決を、ロシア政府とともに講じていく考えです。
 第二に、択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島の日本への帰属が確認されることを条件として、実際の返還の時期及び態様については、柔軟に対応する考えです。